7月15日 あの子の優しさ

人に期待しなくなると幸せな人生に近付く。

誰かに何かをしてもらいたくて相手がそれをしない時「何で○○してくれないの」じゃなく「どうして○○しないんだろう」と行動しない理由を考える。そうすることで、自分の被害者意識が強くなりすぎて相手を一方的に悪者にすることを防げる。そもそも自分の要望を伝えてすらいない場合もあるからだ。

自分が伝えてすらいないのに「察して、行動してくれる」という高度な要求をするのは、相手を超能力者だと思っているからできることだ。期待があまりにも大きすぎる。その期待を人は「重い」と表現する。そんな願望を叶えてくれる存在って執事くらいしかいないんじゃないだろうか。

逆のパターンもある。相手が望んでもないのに「この人はこうしてほしいだろう」と勝手に行動してしまうことだ。人はそれをお節介と呼ぶ。「あなたのために」と言いながら、自分の気持ちを満たすためだけに行動する。勝手に行動して「これだけやったのに」と見返りを求めてくることもある。これも「重い」。

偉そうなことを書いているけど、わたしはこれをどちらもやったことがある人間だ。反省の意味も込めて書いている。じめじめして重たい人間が、明るく軽やかに行動するためにはどうしたら良いのか。思考や行動の癖に気付いたらこまめに直すようにしてきたけれど、未だにリハビリの段階にあると思っている。

厄介なのは、人が弱っている時こそ周囲にこういう重い人間が増えることだ。自分の不安を押しつけて思い通りに行動させようとする。望んでもないことを親切として勝手にやってしまう。判断力が鈍った状態で下手に関わってしまうと、ただでさえ少なくなっているパワーを奪われてしまう。弱っている心に重さがのしかかる。悪意じゃなく善意(のつもり)での行動は断りにくいのだ。

常識とは18才までに積み上げられた先入観の堆積物にすぎない、とアインシュタインは言った。

わたしの家にある味噌は白味噌だ。ずっと味噌はこれだと思って人生の半分以上を生きてきた。でも赤味噌も好きだ。本当は家に味噌を3~4種類は常備しておきたい。味噌汁に入れる具に合わせて毎日選べたら楽しいだろう。そばやうどんのつゆは茶色い。でも京都へ行った時に食べた透き通るようなつゆのうどんは、出汁がきいていてとてもおいしかった。毎日ブランド米のごはんを食べているけど、お米にこだわりがあるわけじゃない。お米をもらえる環境だからそうしているのだ。パンも食べたい。太らないなら毎食パスタがいい。

この人はこういう人なんだ、とずっと思っていても実は全部思い込みだということはよくある。だから話し合えるということはとても大切だ。それぞれに違うところがあっても、理解して認め合えばいい。お互いにどうしたいのか話し合って歩み寄る。

困っている誰かの役に立ちたいなら、その人が話しやすいような信頼関係を築くこと、そして頼りたくなるような自立した人間でいるのが一番の近道だ。自分が心配だからといって行動しないで「あなたなら大丈夫だよ」と信じてただ見守っているのが優しさだということもある。わたしは人生もう終わりだと思うようなどん底にいた時、こういう優しさに幾度となく救われた。

人に期待しないというのは、人を諦めているとか全部自分で抱え込むといったように捉えられやすい。でもそれは違う。あなたにはわたしの願望を押しつけませんよ、自由にしていいですよ、ということだ。しっかりと境界線を引く。あなたはそうなんだね、わたしはこうなんだよと伝える。それぞれの違いを認め合う。経済的にどうとか社会的にどうとかじゃない。年齢も関係ない。自立している大人ってこういう人のことなんじゃないかと最近思う。